* 安曇野冬の旅 *
それはある冬の好天の日。博さんと幹子さんは中央自動車道を走る高速バスに並んで座っていました。
「今日はとても良いお天気。真っ青な冬空に山の稜線がくっきりと映えてすばらしい眺めね。」
「冬に安曇野へ行くなら高速バスが最高だよ。車高が高いから、車や電車とは違った目線で景色が楽しめるし、雪の心配をしながら高速道路を長時間運転しなくていいし。」
「お互い歳をとったしね。松本でレンタカーを借りればタイヤは雪用だから安心だわ。」と言いながら、幹子さんは白髪が目立つようになった博さんの横顔をしみじみと見つめました。
「昔、若い頃は皆でスキーに行くため、よく夜中に走ったなあ。若かったのと、大勢でワイワイ騒いでいたから全然眠くならなかったよ。」博さんは昔を懐かしみ、2人はしばらく黙って、大きな車窓に流れる美しい雪化粧の山を眺めていました。
やがてバスは松本駅前のバスターミナルに到着しました。
「さて、まずは予約してあるレンタカーを取りに行こう」
「ちょっと待って。松本は駐車に苦労するから、先に昼ご飯を食べましょう。久しぶりに松本市内も散策したいし。」
「そうだね。昼は何にする?」
「そうね。お蕎麦はいつも安曇野で食べるから、きょうは久しぶりに松本城近くの中華料理屋で食べましょうよ。」
「いいね。僕はあそこの細麺や水餃子が大好きなんだ」2人は松本城へと向かう通りの裏手の路地にある中華料理屋の扉をあけた。
顔なじみのご主人夫妻としばし談笑しながら食事を済ませ、すっかり温まった2人は松本市内を路地から路地へとショッピングして、再び駅前へ。
「やれやれ。女性は本当に買い物好きだな。」
「だって、和紙とか万年筆とか金物とか呉服屋さんとか、私達の近所では見かけなくなった個人の専門店が沢山あるんだもの。母からもいろいろ頼まれていたのよ。お土産物ひとつだって、ドライブインのものよりずっと気が利いているじゃない?」
久しぶりの松本を満喫した2人はレンタカーで一路安曇野へ。
「どうしよう。今日は絶好のお天気だし、まだ時間も早いから豊科で白鳥でも見ていこうか?」
「白鳥は冬しか見られないものね。明日はオーナー夫妻とスノーシューに行って、そのまま白馬に泊まるし、そのあとの天気は判らないしね。」
2人は冬の陽が川面にまばゆく輝く犀川のほとりにたたずみ、鴨や白鳥が滑るように川を渡り、浅瀬で羽繕いをする様子を眺めていました。そして近づいてきた親子らしき白鳥に2人同時に目をとめると、やがて博さんがぽつりとつぶやきました。
「いろいろなことがあったよね」
「そう・・子供を亡くしたときが一番悲しかった。梅雨時で体調も悪かったせいもあるけど、つらかったな。ずいぶん落ち込んだし、喧嘩もしたけれど、あれより不幸なことはないと思っていろいろなことも乗り越えることができたし、あなたとの絆も深まったと思う。あのときも安曇野へ来たのよね。」
「そうだったね。まあでも、新婚の時あんなに良い家具買っちゃったら別れるわけにもいかないだろう。椅子は分けるにしてもあんな見事なテーブルを2つに切るのはいくらなんでも可哀想だ。」
「家具は「かすがい」ってことね。ふふ・・ 私達のスタートは、この白鳥の飛翔の時期だったわね。」
「そうだった・・何十年も前なのについ昨日のことのように思えるよ・・
これからは僕たちの経験を生かしながら若いときにはできなかったことをしよう。今日が第2の人生のスタートだ。食後のデザートは食べても食べなくても良い物だけれど、だからこそ絶対においしくなければならないんだ。「余生」もそれと同じさ。どうせ生きるなら充実していなければ意味がないよ。」
「確かにそうね。ところで私はそろそろ寒くなってきたからノーサイドでお料理をいただいて、暖炉で温まりながらコーヒーとデザートを楽しみたくなってきたわ。」
「そうだね。僕も薪の火が恋しくなってきた。風邪を引いてもいけない。さあ車に乗って。」
2人を乗せた車は純白の白鳥たちと暮れゆく山々を後に、静かに走り出しました。
<デザート&コーヒー>
栗とチョコレートのケーキ、川中島の桃や杏のシャーベット、林檎のタルトなど、季節の旬に保存しておいた
おいしさを味わえる贅沢な季節。
暖炉ではぜる薪の音と、人それぞれの思い出が、コーヒーの深い香りに溶けゆく至福のひとときをどうぞ。
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