* 安曇野梅雨の旅 *
7月初めの雨模様の日、幹子さんと博さんは安曇野ちひろ美術館の中をゆっくりと歩いていました。いつも楽しい2人なのに、この日は少し元気がありません。
「ねえ、どうする?まだ日が長いから、どこか美術館でも寄る?」と立ち止まって博さんが聞きました。
「・・・・」
「返事くらいしてくれよ。僕だって忙しいのに何とか休みをとって来てるんじゃないか。」
「別に私がどうしても来たいって言った訳じゃないわ。行かないかって誘うからついてきただけよ。」と幹子さんは不機嫌に答えました。
「じゃあ帰ろうか」
「何よ、その言い方・・今さら帰れないでしょ。」
「だったらもう少し楽しそうにしろよ。」
「楽しくもないのに楽しいふりをしろって言うの?」
「もういいよ。雨も降ってるし、ノーサイドへ行こう」
2人は黙ったまま駐車場に向かい、車に乗り込みました。山々は白く煙り、夏の濃い緑に厚いヴェールをかけたようでした。
「なんだかすっきりしない眺めだな。まるで僕たちみたいだ。」博さんが少しうんざりした調子で言うと
「あらそう。私は結構良いと思うけど・・」幹子さんはぶっきらぼうに答え、2人は同時にため息をつき、ノーサイドに着くまで黙ってしまいました。
いつもはラウンジでオーナー夫妻と近況を簡単に語り合ってからゲストルームに行くのですが、気まずい思いの博さんは「ちょっと雨に濡れたから早くお風呂に入りたい。」といって、挨拶もそこそこにルームキーをもらいました。
ゲストルームの扉を開けると、「素敵・・」と幹子さんが声をあげました。その部屋は、大きな窓が2方向に開かれ、まるで本当に、緑豊かな樹々に囲まれているようです。
「緑がきれいな季節だから、コーナーツインを予約したんだ。」博さんの言葉に、幹子さんは下を向いて「ありがとう」と小声で言いました。
「さて、ゆっくり風呂にでも入ろう。」
2人が温泉の貸し切り風呂に入ると、いつの間にか雨はやみ、西日に照らされた木々の葉がゆらゆらとスクリーンに映し出されています。
「きれい・・」湯船につかった幹子さんはそうつぶやくと、はらはらと涙を流し始めました。
博さんも木の葉のゆらめきを眺めながら「さっき、美術館でも泣いていたね。悲しいときは泣いたほうがいいかもしれない。いつでもどこでもってわけにはいかないけど、ここならいいよ。植物に雨が必要なように、人間には涙がいるときもあるんだよ。でもあんまり泣いているとのぼせちゃうけど・・・」と独り言のように言うと、そうよね」幹子さんは思わず泣き笑いしてしまいました。
お風呂から上がり、2人でぼんやりと窓の外を眺めていると、夕食のお知らせがありました。
「食事できそう?」心配する博さんに「大丈夫。泣いたらおなかすいちゃった。」と幹子さん。2人は部屋を出て、ダイニングルームの窓際に設えられた席に座りました。
「今日は少し蒸し暑いから、冷えた白ワインにしよう。ねえ「葡萄貴族」だって。おもしろそうなワインだよ」
「葡萄貴族」は近くにある、小さいけれど丁寧なワイン作りをしているワイナリーで作っていて、おすすめ、とのオーナーの説明を聞いた博さんは、フルボトルを注文しました。コルク風のちょっと珍しいラベルがついています。
「今の季節は本当に日が長いのね。6時半過ぎなのにまだ外が明るいわ。」
ダイニングルームから見える木々の緑は、雨上がりに漂う乳白色の靄の中、西日に照らされてくっきりと浮かび上がっています。その夢幻の世界に引き込まれていた幹子さんは、スープが運ばれてふと我に返りました。
「このスープ、おいしい・・」一口、スプーンを運んだ幹子さんは、にっこりしました。
「蒸し暑いときは特にいいね。」
「白ワインにもとても合うわ。さすがね。」
「リーズナブルなワインを探すには、ちょっと高くても最初に良い物を試すのがいいってソムリエに教わったけどその通りだよ。これはレストランや宿にでもいえることだけどね。たまに贅沢をしなければ本物の良さは判らない、ってこれは作家の池波正太郎の受け売り。
きょうはこれ1本でやめておいて、夕食の後は読書室でくつろいで、早めに寝よう。明日は近くの美術館を歩いて回らないか。夜中は雨が降るらしいけど、明日は結構良い天気らしいよ。今の時期は雨上がりの朝は最高にきれいだってオーナーが言っていたから、朝食前に散歩に行ってもいいな。」
「いいわね・・本当言うと梅雨時の旅行なんて気が進まなかったのだけど、雨粒が木の葉を揺らすリズムや土に響く雨音が、こんなに優しく感じられるなんて思わなかったな。ありがとう。無理してくれて。明日は今日の思い出に、ガラス工房でワイングラスを作りましょうよ。」
「僕も忙しすぎたから、息抜きできて丁度良かったよ。今度の夏休みは9月に取らないか?久しぶりに安曇野の爽やかな風の中をサイクリングしたくなったよ。」
「そうしましょう。それじゃあ池田の美術館とその近くにあるお蕎麦屋さんはそのときの楽しみにしましょうか。そばもその時の方が美味しく食べられそうだし。でもあそこまでサイクリングはちょっときついかもね。
ねえ、外を見て。夕暮れの緑が素敵よ」幹子さんにいつもの優しい笑顔が戻ってきました。
「本当だ」
暮色に沈む濃い緑の美しさに癒されていく幹子さんの様子に、博さんは安堵し、安曇野の豊かな自然に感謝していました。
実は2人には、とても悲しい出来事があったのです。それは後の章に。
<スープ>
冷たいじゃがいものスープ
まろやかなじゃがいもと、香ばしいとうもろこしに、アンチョビがほのかなアクセント。
地味だけれど、メインディッシュへとつなぐ優しい味の一品。
恋人同士から、本当のパートナーシップへと絆が深まる大切な季節。
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