信州、安曇野、穂高、ゲストハウス・ノーサイド、スローライフ、スローフード、食の歳時記 3 月


* 3月 山葵の花


 

 3月になると空気は冷たいながらも、日差しは確実に春めき、うっかりすると厨房のジャガイモが勢いよく芽吹いてしまう。
 ここ安曇野の春の使者は山葵の花だ。アルプスの冷たい雪融け水の流れに、白く可憐な米粒ほどの花が顔をのぞかせると、長い冬も終わりを告げる。
 穂高町にはわさび園という、主に観光目的の大規模な山葵農場もあるが、それよりもこの時期は、川沿いの道をゆっくり散策すると、そこここに見つけることができる、小さな山葵畑を見るのが、私たちは好きだ。雪を戴いた山々に、芽吹き始めた木々、その下でこっそり春の訪れを告げているのは、何ともけなげな風情である。

 

この山葵の花は食用にもなり、冬ごもりしていた体を、優しく起こしてくれる柔らかな辛みがある。この時期になると行きつけのT山葵問屋で「山葵の花ある?」というのがご挨拶がわりになり、元気のいい大奥さんや若奥さんが、山葵の葉を切り落とす作業の手を休めて花を持ってきてくれる。

町の名産だけあって穂高町に山葵店は多々あるが、私達はここの山葵や山葵漬けが一番新鮮なように思う。一度本当に目の前で葉を落としてくれた山葵を買って帰ったら、袋から出しただけで、目も鼻もぴりぴりしたことがあった。価格も安いので、山葵店を教えて欲しいというゲストの方には、一応ここをお薦めしているが、いろいろとお好みもあると思うので、山葵店巡りをしてみるのも楽しいかもしれない。

 3月は春分の日の前までにレインボートラウトの薫製を作る。M鯉店(鯉店といっても川魚はほとんど扱っている)でその日に池から揚げて3枚におろした桜色のトラウトを良く洗い、魚用の調味液に漬け込み、塩出しし、一晩虫除け網の中で干しておく。もちろん夜には取り込むのだが、あるときうっかり暗くなってから取りに行ったら暗がりに光る目が6つみえた。たぶん猫だ。もちろん魚は無事だったが、まったく油断も隙もない。そして翌日燻煙をし、4〜5日寝かせてから、骨を抜いて保存する。

生ハムも同様だが、やはり薫製は乾燥と燻煙の時に、程良い風があるととてもうまくいく。都会でも手軽に薫製を作ることはできるが、やはりアルプスの澄んだ空気の中で作られたものはひと味違い、これは田舎に住む者の特権である。

 私達の使う川魚は、すべてこのM鯉店から仕入れている。M鯉店は様々な魚を養魚しているが、唯一他から取り寄せてもらうのが「信濃雪鱒」である。 信濃雪鱒はその名の通り鱗を引くと、流しにびっしり雪が降り積もったようになる。スズキに似た味を持つこの魚は、原産地がチェコで、学名を「ペリアジ」(現地語ではもっと洗練された発音になると思われる)というらしい。飼育の方法が特別なので、まだM鯉店では扱っていないのが残念である。

 M鯉店では地下40mからアルプスの地下水を汲み上げて養魚していて、川魚というより「アルプスの名水魚」といった方がいいかもしれない。

「昨今川の水は汚染が怖いからねぇ。だから停電になると水を汲み上げるモーターを稼働させるため、自動的に自家発電に切り替わって、夜中でも警報がなるようになっているのよ。生き物飼ってるからお盆も正月も休みはないし、のんびり旅行もできないし・・・でもおかげでうちの魚は、臭みがないっていろんな人から言われるのよ」とは若奥さんの弁である。本当に生き物を飼うのは大変な仕事だ。ここも家族経営で、野菜や米も作っていて皆本当によく働いている。(写真は信濃雪鱒)

 

トラウトの薫製も終わり、3月も末の頃になってくるとM青果の店頭には、春野菜がぼつぼつ顔を出し始める。新人参に、新ジャガイモ、新キャベツ、春キュウリ、サラダ株や新タマネギなど、春の野菜はどれも上品な甘みの水分をたっぷり含み、優しく繊細な風味なので、生食か、さっと火を通す程度で食べるのが美味しい。冬野菜が体にしっかり栄養を蓄える役割があるとすれば、春野菜は、活動期に向け、心身を活性化させてくれる「目覚まし」のようだ。





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